K-018 吉田松陰の書

吉田松陰(よしだ しょういん) 号は二十一回猛志(にじゅういっかいもうし)
天保元年(1830)~安政6年(1859)
長州藩士。杉百合之助の次男。山鹿流兵学師範吉田大助養子。名は虎之助、大次郎、寅次郎など。

周布公輔論説稿本幅(部分写真)
吉田松陰の書_周布公輔論説稿
 長州藩政務役筆頭の位置にあった周布公輔(政之助)は、椋梨藤太とともに藩政をリードしていた。周布の「朝廷へ忠節、幕府へ信義、祖先へ孝道」という方針は、吉田松陰の松下村塾生である高杉晋作ら尊攘派の良き理解者で、師父のように慕われていた。吉田松陰が周布公輔の論説を説いた原稿は現在、山口県萩市の松蔭神社「戌午幽室文稿」に収められています。この資料は、その原稿の草稿(下書き)であり、吉田松陰を知る上で貴重な資料です。

 吉田松陰は天保11年(1840)年、11歳で藩主毛利敬親の面前で『武教全書』を講じた。嘉永2年(1849)から藩命により九州を巡遊。嘉永4年には、藩主に従って江戸に遊学。山鹿素水、佐久間象山らに師事。藩の許可無く、東北を廻って藩邸亡命の罪で藩籍を除かれる。再度藩から許可されて江戸に遊学中の嘉永6年(1854)年4月ペリー来航の報をえて浦賀に視察し西洋の先行文明に心を打たれ、幕藩体制の矛盾と体制崩壊を予見。海外視察のためロシア艦やアメリカ艦隊に密航を試みて失敗する。この罪により江戸伝馬獄に下り、さらに萩の野山獄に移さる。翌年出獄し幽閉中、松下村塾を開いて、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文など維新の志士元勲の多くを育てた。安政6年(1859)幕命により江戸へ檻送、梅田雲浜との関係など尋問が開始されたが、幕府がまったく知らなかった、老中間垣詮勝の要撃策を自供、伝馬獄で処刑さる。見識の高さや、その生き方・行動力は多くの志士達に影響を与えた。